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「小説 お女郎縁起」遂に完成!

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 長らく連載していた「お女郎縁起考」の集大成、長編小説がついに完成しました!   寛政2年3月4日、武州石神村で若い娘の行き倒れが発生。この娘は何者なのか?どこから来てどこへ行こうとしたのか?「川口市石神妙延寺の女郎仏」、「大宮宿のお女郎地蔵」の2つの伝説をモチーフに激動の天明・寛政描く。鬼平長谷川平蔵と大盗賊神道徳次郎、さらに伊奈氏改易。様々な因縁が絡み合う歴史時代小説。  * この小説は下記の章ごとにご覧になれます。各章の下のリンクをクリックしてください。   小説 お女郎縁起   寛政秘話 石神女郎仏と大宮お女郎地蔵 目次 第一章        本所牢屋敷-寛政元年( 1789 )5月6日 https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1789_13.html 第二章        旅路-寛政2年( 1790 )3月3日 https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1790_20.html 第三章        石神村-寛政2年( 1790 )3月4日 https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1790_73.html 第四章        石川島 ― 寛政2年( 1790 )2月~寛政3年( 1791 )8月 https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/17901791.html 第五章        馬喰町 ― 寛政3年( 1791 )8月24日 https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1791.html 第六章        大宮宿 ― 寛政4年( 1792 )3月8日  https:/...

小説 お女郎縁起 第七章 石神村―寛政4年(1792)3月10日

小説 お女郎縁起 寛政秘話 石神女郎仏と大宮お女郎地蔵   改易  寛政4年( 1792 )3月9日。その日、衝撃の知らせが来た。村中騒然となったが、石神村どころではなく関東の民衆すべてが騒然となった。 【伊奈家改易】 つまり200年関東において民衆の守り神として崇められた関東郡代伊奈家が失脚し、お取り潰しとなったのだ。いや、正確に言えば伊奈家は親戚筋から伊奈小三郎忠盈(ただみつ)が、僅か千石の知行(ちぎょう、領地)で相続を認められたのだが、関東に絶大なる影響力を誇示した名門伊奈家は消滅したのである。 改易の直接のきっかけは、前年10月24日伊奈忠尊の正当な後継者(養子)である前当主の実子伊奈忠善(ただよし)が、忠尊派からの毒殺を恐れて出奔したことによる。忠尊はそれを隠し、幕府に対し忠善が居るように偽って報告していたのである。これを幕府は不届きとして忠尊を処断した。 「伊奈半左衛門と申せば百姓はもちろん町人に至るまで神仏のように敬い申し候処、かくの如く家断絶におよびては気の毒千万。殊に御由緒と申し候ては上もなき家筋にて惜しき事供なり」(寛政4年子年覚書) 巷間(こうかん、世間)このように惜しまれた。 翌10日、庄右衛門の家に藤田が来ていた。無論、改易の話はすでに聞き及んでいる。 「会田様から伝言があってな。」 藤田は沈んだ声で言った。 会田七左衛門は前年11月、当主伊奈忠尊の実兄、寺社奉行板倉周防守勝政によって、故杉浦五大夫の息子五郎右衛門と豊島庄七、そして永田半大夫、九郎兵衛父子とともに本所牢屋敷に収監されていたのだが、この日幕府によって無罪放免とされたのである。皮肉なことに会田等が再三訴えてきた主張は、伊奈家改易後にその正当性が認められたのである。この辺りに幕府が意図的に伊奈家の内紛を放置していたことが透けて見えるのである。   「会田様はご無事ですか?」 「ああ。今日本所牢から出所した。」 庄右衛門は絶句した。改易の詳しい内容は知らなかったので、会田がそんなことになっているとは知らなかったのである。 「大丈夫ですか?お腹を召される(切腹)ことはないですか?」 庄右衛門心配そうに言った。 「あんな奴(忠尊)のために腹を切る奴なんて居ないさ。」 家臣の忠告を聞かず、散々好き放...

小説 お女郎縁起 第六章 大宮宿―寛政4年(1792)3月8日

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  小説 お女郎縁起 寛政秘話 石神女郎仏と大宮お女郎地蔵 木曾屋  大宮宿は始め、武蔵一宮氷川神社の一の鳥居から神社の手前まで中山道としていたものを、寛永5年( 1628 )代官頭(だいかんがしら)伊奈半十郎忠治(ただはる)が西側に付替え、そこを大宮宿としたことが起源である。大宮宿は日本橋から数えて中仙道の 4 番目の宿場で、日本橋か 2 里半(約 30km )、板橋宿からは 5 里( 20km )の距離にある。宿場としては大きくはないが、神社の参拝客も来るので他の宿場より賑わいがある。 大宮の材木商「木曾屋」の主人清五郎は、昼餉前に仕事を済ますと、秩父に派遣していた番頭の帰りを待っていた。番頭は秩父の山方衆(林業従事者)と、今年の木の出荷の見込みと、買い付け価格の交渉に行っていて今日中に帰る予定だった。木曾屋は毎年この時期に秩父に交渉に行くことが山方衆との取り決めとなっており、極めて大事な交渉事であるので、本来は清五郎自身が行くべきだが、昨年も今年も番頭任せにしている。 清五郎は 3 年前父から材木屋「木曾屋」を引き継いだ。木曾屋は先々代までは千住の材木問屋から材木を仕入れていたが、先代が安永 4 年( 1775 )の大火で、大宮宿の半分が焼失した際、復興のための木材を秩父から直接買い付け、宿場の再建のために安価で販売した。それ以来木曾屋は主に秩父の山方衆から直接仕入れをしている。 清五郎が秩父に行かないのは理由があった。 3 年前には代替わりの挨拶のために父に同行したが、その間に許嫁(いいなずけ)が自殺し、 2 年前には一人で行っている間にその妹が失踪してしまった。妹は今も行方知らずだ。なので彼はこの時期になると気分が沈み、仕事に身が入らないのだ。そんな事情があるので、番頭も快く秩父行きを引き受けてくれている。 「いかんな。」 清五郎はそうつぶやくと、買い付け台帳を帳場の床に投げ出し横になった。 (いい加減しっかりしないと。父はもういないのだ。仕事に精を出さないと私の代で店が潰れてしまう。) (それに、早く嫁を貰わないと後継ぎがいなくなる。) (しかし、どうしても千歳(ちとせ)が忘れられない)と思うのである。 千歳とは自殺した彼の許嫁だった。そして明日がその命日だった。 彼と千歳、その妹の「幾」(いく)は...