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  須走伊奈神社氏子様御一行。107年ぶりにご当地と川口市の記念写真となりました。   2023年11月13日清涼なる秋の空気の中、静岡県小山町須走にある伊奈神社の氏子様御一行が伊奈家の菩提寺川口赤山の源長寺に墓参に来られ、AGC新井宿駅と地域まちづくり協議会歴史部としてお出迎えしました。この方々は江戸時代中期宝永4年(1704)の富士山宝永大噴火によって壊滅的な被害を受けた地方の方々で、被災地の復興に当たった第7代関東郡代伊奈忠順への墓参に2年に一度訪れています。 巨大な富士山宝永噴火口 噴火の被害は火山灰の降灰で、当地方では少なくて60センチ、多いところは3メートルにも及びました。降灰は関東全域にも及びその総量は17億立方メートル。東日本大震災のがれき総量の36倍にもなりました。最も被害の大きかった静岡県小山町や御殿場市などの御厨地方は元々生産力(年貢高)の低い地域だったので、幕府は全国から巨額の義援金を集めたにもかかわらず、復興には使わずその大半を大奥の改修工事などに流用してしまいました。 宝永噴火のスコリア(火山砂)堆積層。富士霊園付近 。 幕府から見捨てられ亡所とされた当地方の人々は再三救済の嘆願書を提出しました。そのため復興責任者の伊奈忠順は当地方を巡検し詳細に被害を調査しました。そして金を出す気のない幕府と粘り強く交渉し、降灰で河床の上がった酒匂川の砂除けや堤防工事などに、当地方に人々を他地域の人よりも高い賃金で雇用させたり、畑や屋敷地などの砂除けに補助金を出させたりと、本来の復興予算ではない名目で資金を出させて、お上から見捨てられた当地方の復興に尽力しました。伝説では忠順の尽力にもかかわらず飢餓のピークを迎えた被災地に、無断で幕府米蔵の米を分け与えて責任を取って切腹したと伝わっています。 伊奈半左衛門忠順公像。須走伊奈神社。 命を賭した忠順への感謝を忘れない当地方の人々は宮内庁に働きかけ、大正4年11月に忠順に従五位の追贈を成し遂げています。須走伊奈神社は噴火から200年後の1907年(明治40年)に須走西沢の入会地に建立。その後250年後の1957年(昭和32年)に須走下原の現在地に移転しています。 須走伊奈神社 当地方の人々の源長寺墓参は1916年(大正5年)1月29日、小山町吉久保の渡辺誠道氏が源長寺を訪れ、当時の伊奈家当主や伊奈家と交流のあっ