小説 お女郎縁起 第五章 馬喰町―寛政3年(1791)8月24日
小説 お女郎縁起
寛政秘話 石神女郎仏と大宮お女郎地蔵
大樹
関東郡代伊奈家とは関東の幕府直轄領の内30万石を支配する代官で、すべての代官の筆頭である。通常代官は5~10万石の支配地を10~20人程度で支配する。代官は勘定奉行の末端組織で、支配下の農村から年貢を徴収するのが主な仕事である。伊奈氏も支配地は大きいが勘定奉行の下部組織には違いがない。しかし、将軍の鷹場の管理や、江戸周辺の主要な宿場の支配、関所の管理など、代官の仕事以外にさまざまな職務に就いている。家臣も150人からおり、実質大名並みの家勢を誇っている。そのため度々勘定奉行と同等の地位に引き上げられて、幕府の重要な政策に関わっている。
伊奈家がなぜこのような特殊な組織で特殊な地位にいるかというと、それは徳川家康の関東入府(1590年)まで遡る。その時家康の信任を得て代官頭に就いた伊奈忠次は河川改修や新田開発で大きな業績を上げ、その後の関東の基礎を作った。この代官頭の持つ様々な権限を次男の伊奈忠治が継承し赤山領を賜った。それが代々継承され200年間10代目の忠尊まで続いている。つまり、幕府初期の代官頭という古い役職がそのまま続いてしまっていたのである。当然上部組織の勘定奉行らとは軋轢が生じたが、伊奈家の持つ関東での影響力の大きさから存続を許されてきた。幕府は自身で対応できない問題に直面すると切り札のように伊奈家を使った。騒擾の収拾、自然災害の復興、河川改修、日光社参の人馬徴発など上げればキリがないほどである。そもそも利根川や荒川を今の流れに変えたのも伊奈氏であって、関東・江戸の発展は伊奈家抜きでは為せなかったのである。そういう意味では幕府の中でいびつなほど大きい力を持つ伊奈家は必要であり、幕府内で軋轢を生む厄介者でもあった。しかし、その伊奈という大樹は内部から崩れようとしていた。
忠義
事の発端は天明8年(1788)11月、伊奈忠尊が家老の永田半大夫、九郎兵衛父子を突如赤山陣屋に逼塞(自宅軟禁)に処したことである。永田半大夫は伊奈家随一の実力者であり、家臣たちの信頼も篤かった。なぜそんなことになったかというと、ある日老中松平定信に駕籠訴(要人の駕籠に直接訴えること)があり、江戸打ち壊し収拾の際に永田に不正があったと訴えた。(松平定信は後にこれは伊奈忠尊が仕組んだ虚偽の告訴だと言っている)松平定信は幕閣と諮り伊奈忠尊に処断させたのだが、その理由は一切誰にも説明がなかった。永田が家政の中心だったことから、家中は処分の解除を願ったが、いつまでたっても解かれることはなかった。そのまま1年半が経ち伊奈家の職務に支障が出始めたことから、痺れを切らした杉浦五大夫、野村藤介、会田七左衛門の3人は、永田の処分解除と復職を求めて伊奈忠尊の実兄である寺社奉行板倉周防守勝政に相談に行ったのである。しかし勝政は相談に応じることなく、そのことを忠尊に伝え、激怒した忠尊が3人を解職処分にした。
伊奈忠尊は備中松山藩板倉勝澄の11男で、伊奈家先代の忠敬(ただひろ)の養子になった。安永7年(1778)忠敬の死後当主になった。忠敬には忠善(ただよし)という実子がいたが、幼少だったため忠尊が後を継いだのである。忠尊は災害相次ぐ天明期に抜群の活躍を見せたが、次第に驕慢不遜になっていく。永田はそれを諫めたが聞かなかったという。ある時は江戸城で老中を背にして座り、それを咎められたにも関わらず態度が悪かったという。これら不遜な態度は幕閣の顰蹙を買ったに違いない。
忠尊はある一件をきっかけにふてくされ、それ以来全く仕事をせず、病気と称して江戸城にも登城せず、吉原や岡場所(私営の女郎屋)通いや舟遊びなどやりたい放題を仕出した。それは伊奈家が幕府から金を借りて他へ貸付けて利息を得るための公金1万5千両の返済期限を繰り延べしてもらう嘆願を、幕府から拒否されたことによる。公金貸付は他の代官もしていたが、伊奈家は規模が違い、一大金融機関の体をなしていた。この収入のおかげでどうにか家計を維持してきたのである。しかし、貸付は需要が減ったり相手が大名だったりすると焦げ付くことが多々あった。そのため伊奈忠尊自身が繰り延べを嘆願したのだが、幕府は3年で返済せよと手厳しかった。これは忠尊自身が幕閣から嫌われていたことも原因と思われる。これ以降忠尊の不行跡が酷くなっていった。こうして伊奈家は当主と家政の中心者が不在という事態が長期に及び、次第に機能不全に陥った。
寛政3年(1791)4月6日、杉浦五大夫、会田七左衛門、野村藤介の3人は馬喰町郡代屋敷にいた。昨年11月に永田復職願いと忠尊改心を訴えた連判状を提出した後もそれが果たされなかったので、再び連判状を出しに来たのだ。
3人は決死の覚悟でいた。すでに永田不在と忠尊乱行によって伊奈家は崩壊寸前になっていたのだ。もう一刻の猶予もなかった。
「富田様、今すぐ永田殿を復職させて頂きたい。もうこれが最後でございます。」
杉浦五大夫は挨拶もせずに言った。言われた富田吉右衛門は伊奈家筆頭家老であった。彼はため息をついた。
「杉浦。私にもどうにもならんのだ。大殿は誰の言うことも聞かぬ。兄君の周防守(板倉勝政)様でもだ。」
「富田様のお覚悟は如何に。このまま事態が推移すれば当家は潰れます。そんな泣き言を言っている場合ですか。」
杉浦は富田を真っすぐ見つめ言うと富田は沈黙した。野村が口を開いた。
「何故永田様を拒むのですか?永田様以外この難局を乗り切ることは叶いませぬ。ご家老にはそれが分かりませぬか?」
忠尊が異常なほど永田が復職することを拒んでいるが誰もその理由が分からない。野村は続ける。
「永田様が処分されてから今日まで2年半、何の理由も明かされておりませぬ。永田様本人にもです。ご家老はそれで良いとお思いですか?」
「それは上意だからだ。白河様の駕籠に永田に不正があると訴えがあり、大殿に処断するよう命じられたのだ。それに逆らうことは出来ぬではないか。」
富田は上意に良いも悪いもないと考えていた。
「しかし、大殿様は昨年11月には永田様の逼塞を解かれました。同時に解職も解かれるのが筋ではありませんか?永田様が復職なされると何か都合が悪いことがあるのですか?」
野村はそもそもの駕籠訴が忠尊の仕組んだ虚偽の訴えではないかと疑っていた。本当は忠尊の方に不正があり、永田が復帰するとそれが発覚することを恐れているのだと。
「めったなことを言うな。大殿が不正をしているというのか?」
「証拠はありません。しかし、大殿様が一昨年1万5千両の拝借金の繰り延べを幕府に訴えられましたが、なぜ返済が出来なかったのでしょうか?その2か月前にここにおられる杉浦様が仙台藩への貸付金2万両を回収してきたではありませんか。それを返済に充てれば何も問題が無かったはずです。」
仙台藩への貸付金は伊奈家が再三返済を迫っても返さなかったものを、杉浦五大夫が仙台に乗り込み、一歩も引かずに交渉した結果2万両に充当する8千5百俵の米穀を江戸に回送したことで決着している。野村は最も返済しなければならない幕府からの拝借金に杉浦が取り立ててきた金を充てなかったことに疑念を抱いていた。拝借金の返済を優先し、それ以外の借金を繰り延べにすれば何の問題もなかったと言いたいのだ。永田がいればそれをしただろうとも。永田こそ公金貸付の責任者だったからだ。
「大殿が決めたことだ。返済資金があろうがなかろうが、それが最善だと判断されたのだ。家臣の口出すことではない。」
富田の言葉に野村は気色ばんだが、それを会田が制した。
「ご家老様、貸付金の件もそうですが、それ以上に切迫しているのが大殿様の不行跡です。噂は幕閣にも届いており、すでに内偵に入っていると聞いています。このままでは大殿様ご自身が罪に問われることになりますぞ。」
会田は忠尊が病気と称して仕事も江戸城にも登城せず、遊び歩いていることを幕府が嗅ぎつけていることを知っていた。普通ならそれだけで処分される。
「わかっておる。だからこそ大殿をどうやって守るか腐心しているのだ。それをお主らが騒ぎ立てては守るものも守れぬではないか!」
富田は苛立ちを募らせていた。永田の不在が家政に支障を及ぼしていることも、忠尊が改心する気もないことも分かっていた。杉浦達の目的が、もはや改心ではなく忠尊の排除、退陣にあることは明らかで、そのために忠尊が頑なになっていると考えていたのだ。
「とにかく大殿の改心を重ねてお願いするしかないのだ。それは私がやるから黙っててくれ。」
会田は納得がいかない様子だった。今度は杉浦が口を開いた。
「富田様。何故それほどまでに大殿様を庇われるのか?今伊奈家を傾けているのは大殿様ではござらぬか。」
富田は憮然としている。
「杉浦、どんな主君でもお守りするのが家臣ではないか。それをしなくて何が忠義なのだ。」
「忠義?忠義と申しますか?御家を軽んじ潰れても構わぬ態度を取る主君に忠義と申しますか?」
「口が過ぎるぞ、杉浦!」
富田は叱責したが杉浦は収まらない。
「我らの忠義は民の為に命を削って来られた代々の御屋形様、そしてその矜持でございます。我らはその為ならいつでも身命を捨てるつもりでおります。富田様は今の大殿様の為に腹を切ることが出来ますか?」
富田はそう言われて沈黙した。そして弱々しい声でこう言った。
「伊奈家有ってこそ精神の継承が保たれる。故に家の存続こそが大事。伊奈家無くして誰が民を守るのか?主君を守り抜いてこそこの難局を乗り切れる。そうは思わぬか?」
杉浦は腕を組んで目を瞑った。もうこれ以上話は平行線である。富田や他の家老達を説得するのは無理であって、もうそんな時間もないと思った。杉浦等3人は郡代屋敷を後にした。富田は伊奈家改易後、伊奈家を親戚筋から新規相続した伊奈忠盈の家老を勤めている。彼なりに信念を貫いたと思われる。
崩壊
杉浦達の連判状は不発に終わったが、その後それを聞いた永田半大夫は身内(伊奈家と板倉家)では解決不可能と判断して、幕府要人にこれまでの経緯を書いた内訴状を送った。すると若年寄の安藤対馬守から伊奈忠尊に家中の混乱と自身の不行跡についての質問状が渡された。5月15日、久しぶりに登城した忠尊は答案書を提出したが、そこには「騒動は解決済み」「不行跡はさらさら身に覚えがない」と書いてあった。誠に不愛想な返答だったが、なんと幕府はこれで不問にした。
これに業を煮やした杉浦は、違う幕府要人に再度上申書を出した。しかし、これを知った忠尊は激怒。永田半大夫は謹慎、杉浦五大夫、五郎右衛門父子、会田七左衛門、野村藤介は伊奈屋敷に監禁。他連判状にあった47名は蟄居謹慎処分とした。伊奈家家臣団は150人余り、それを50名以上処分して役目から外してしまったのである。これで実質伊奈家は終了した。
寛政3年(1791)8月24日杉浦五大夫が死去した。その際「君、君たらずといえども、臣、臣足らざるべからず。御家はここに滅ぶとも、謹んで伊奈家の名を穢すべからず。」と言い残したという。杉浦五大夫享年65歳。
その後の幕府の対応も家臣に冷たく、弟に甘い実兄の板倉勝政に裁定を任せ、板倉は当然のように再度会田等を処断した。
動揺
寛政3年(1791)10月のある日。石神村名主岩井庄右衛門の隣家の杉山喜助が赤山陣屋の労役から帰って来ると、庄右衛門宅に来た。
「庄右衛門さん。伊奈様の御家中がおかしくなっているように思うのですが、何か聞いていませんか?」
「何かとは何か?」
喜助は最近全く会田七左衛門を見ないと言った。会田の屋敷も誰も居ないという。さらに以前永田屋敷で家老の永田らしき人を見たこともあると言った。永田は馬喰町の郡代役所で伊奈家の重責を担っており、赤山陣屋に居るはずがない人物だった。
「う~ん。俺も最近おかしいと思っていたんだ。じつはな、まだ年貢割り付け状(納税通知書)が来てないんだ。」
「え?それは変ですね。もうとっくに来てるはずじゃないですか。」
「そうなんだ。特に伊奈様はその辺きっちりされているからな。何かおかしい。会田様がいないことと何か関係があるのかもしれない。心配だから藤田様に聞きに行ってみるよ。」
会田家は関東郡代伊奈眼の支配地を分割支配する4人の支配人の内代々その一人を相続する譜代の重鎮で、その公正で誠実な施政は支配地の民から信頼を受けてきた。会田家はその役職から赤山に住する事が多く、赤山領の領民にとっては親のような存在であった。殊に現支配人の七左衛門は領内の百姓に商品作物の栽培を奨励し、特に赤山の切り花や柿渋などは特産として江戸に出荷され、領民を大いに潤していた。有能であり、領民思いの男であった。石神村に熱心に渋柿の植樹を勧めたのも七左衛門だった。天明飢饉の時には飢饉が拡大する前から領民の自衛作を指示することで乗り切ることが出来た。会田はその際赤山陣屋に支配地の名主を集めて言った。
「此度の飢饉を甘く見てはならぬ。二年三年、もっと続くかもしれない。飢饉は広範囲に拡がり、やがて食料を奪い合う事態になることは間違いない。この未曾有の危機に於いてはお上を当てにしてはならぬ。凶作が何年も続けば手の打ちようがないからだ。故にお主たち自身で乗り切るのだ。」
会田からそう言われた当時は誰もがそんな酷いことになるとは思わなかったが、1年も経つと現実のものとなった。人々は厳しくも暖かい配慮に心から感謝したのである。その会田が赤山に居ないのだ。
庄右衛門は村役人を連れて赤山陣屋に入ると、藤田の詰める役場を訪ねた。藤田は庄右衛門らを見ると、”何事か?“という顔をしたが、いつもの明るい顔で出迎えた。庄右衛門達は会田の不在の事、年貢割り付け状の未発行など、家中で何が起こっているのかを藤田に詰めよった。藤田は誤魔化していたが、やがて怒り出した。
「お前たちはそんな心配するな!これは俺たちの問題だ!お前達はそんな心配せずに家業に精を出していれば良いのだ!もうほっといてくれ!」
そう言って庄右衛門らを追い出した。藤田があのように怒るのを見るのは初めてだった。心なしか悔しそうにも見えた。
(伊奈家で何が起こっているのだ。俺たちに何か出来ることは無いのか?)
庄右衛門は言い知れぬ不安と苛立ちを覚えた。
第6章に続く。
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目次
第一章 本所牢屋敷-寛政元年(1789)5月6日
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第二章 旅路-寛政2年(1790)3月3日
https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1790_20.html
第三章 石神村-寛政2年(1790)3月4日
https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1790_73.html
第四章 石川島―寛政2年(1790)2月~寛政3年(1791)8月
https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/17901791.html
第五章 馬喰町―寛政3年(1791)8月24日
https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1791.html
第六章 大宮宿―寛政4年(1792)3月8日
https://araijyukuiina.blogspot.com/2025/03/1792.html
第七章 石神村―寛政4年(1792)3月10日
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